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代表者プロフィール

株式会社デザインエイエム 代表取締役
アートディレクター/グラフィックデザイナー
溝 田  明  AKIRA MIZOTA

1966年 愛媛県(瀬戸内海の島)生まれ。
海と山しかない田舎で、真っ黒に日焼けした野生児として育つ。
高知大学教育学部(デザイン専攻)を卒業後、
「3年間の修行のつもり」で上京する。
デザイン制作会社を経て1998年独立。
2000年 株式会社デザインエイエムを設立。
「デザインで明るい未来をつくる」という理念のもと、
企業のCI・VI・ロゴなどのグラフィックデザイン、
ブランディングを中心に活動している。
そのデザインによってクライアントが株式上場を果たしたケースや、
売上を1年で4倍にしたケース、異例の大出世をしたケースもある。
リピート率は9割を越える。
最近は「中小企業向けブランディングセミナー」も定期的に開催。

著書『本質を一瞬で伝える技術』(KADOKAWA中経出版)
NHK「クローズアップ現代」等 出演多数
書籍「ニホンゴロゴ2」等 掲載多数
日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)会員

さらに詳しいプロフィールはこちら

瀬戸内の海のようにのんびりした幼少時代。

愛媛県の瀬戸内海の小さな島(中島町:現松山市)に生まれる。

幼少の頃は、とにかくおばあちゃん子の甘えん坊だった(らしい)。
今でも世界一のばあちゃんだったと思っている。

信号機が1つしかないような
海と山しかない田舎で、真っ黒な野生児として育つ。
周囲40kmの島は、探検するには恰好の遊び場だった。

毎日、西の海に落ちるきれいな夕日をぼーっと見ていた。
1秒毎に刻々と変化して行く空と海のグラデーションに魅了されていた。
現在の色彩感覚は、この頃に培われたものと思われる。

瀬戸内海の温暖な気候と穏やかな海によって、そのまま人格形成されたらしい。

図工と体育が得意な小学校時代。

小学校に入る頃からはずっと真っ黒な野生児で
小学2年の夏の写真を見ると、目と歯だけが白い。
学校ではいつも短パン。長ズボンを履いたことは一度もない。
落書きは、数字やアルファベットばかり夢中で描いていた。

素潜りが得意で、海に潜ってはサザエやアワビを釘1本で獲り、
そのまま磯で焼いて食べるという、今思えば非常に贅沢な遊びをしていた。

小学3年、友人を描いた水彩画が「これは大賞をとれる」と
周りの先生方が騒いでいたのを覚えている。
ただ、出品するのに「子どもの絵らしく指を4本にしなさい」という先生のアドバイスには納得できなかった。
この頃から、自分でも美術(図画工作)が得意だと思い始める。
その後、絵画や書道コンクールでは、たいてい賞を取り表彰されていた。

小学校ではスポーツ少年団(ソフトボール)
6年生時の県大会で準優勝(ショートで9番)
練習用のキャップには、自分のイニシャル「AM」のロゴを子供なりにデザインして入れていた。

デザイナーを意識し始めた、中学・高校時代。

中学2年、美術の先生に「デザイナーになったら?」と言われ、
初めて「デザイナー」という職業の存在を知る。
でもそんな横文字のかっこよさそうな職業は自分には合わないだろう、と勝手に思っていた。

中学卒業時、将来自分は手先を器用に使うような美術関係の仕事がいいのだろう、
ただ、小さい頃から父親はおらず、母も病弱だったため、
将来は自分が人一倍、いや2〜3倍は稼がないといけないのだろう、とぼんやり思っていた。
中学の部活は、バレーボール(セッター兼アタッカー、キャプテン)

高校1年、なぜか英語の先生と保健の先生からも「デザイナーになったら?」と勧められる。
どうやら、当時ノートや記事のまとめ方が群を抜いて上手だったらしい。
部活はラグビー部。ポジションはハーフ。(1年時の県大会準優勝がベストスコア)

3年秋、ラグビーの部活が終わると同時に、受験のため突然デッサンを始める。 ラグビーをやっていたヤツが急に黙々とデッサンを始めたので周りの友人たちは驚いていた。

デザイナーにこだわった大学時代。

高知大学教育学部になんとか合格。
特設美術工芸過程 デザイン専攻。

美術史や美術理論、西洋画や日本画、木工や金工や彫刻、写真やデザインなど
美術の基礎を学ぶことができた。

上級生の先輩から「おまえは色彩感覚がある」と言われる。
その直後、色彩感覚は18歳で止まることを知り、胸をなで下ろす。

ただあまり大きな声では言えないが、勉強はあまりまじめな学生ではなく、
ほぼ毎日アルバイトと遊びに明け暮れていた。
気性が荒く酒好きな高知での遊びは時々少々危険を伴った。

まじめな友人からは「たまには学校においでよ」と言われたが、
これも社会勉強だ、ぐらいに思っていた。
ただ、3年時から「デザイン」が専攻できないのであれば大学を辞めようと思うぐらい、なぜか「デザイン」には強い思い入れがあった。

教育学部だったので、美術教師という道もあったが、
公務員の安定というより、どこまで挑戦できるかわからないがデザイナーへの道を選ぶ。
ただ大学4年時、1ヶ月の高校教育実習では、生徒たちがかわいくて教師への道も考えた。

上京。無我夢中で将来の夢だけが支えだった20代。

1989年(平成元年)大学卒業と同時に、
「3年間だけの修行のつもり」で上京。
池袋の小さなデザイン制作事務所に入社。

右も左もわからない東京で、風呂もない小さなボロアパートで生活を始める。
初任給は手取りで13万程だったので(当時大学初任給は20万余りの時代)
土曜は居酒屋でアルバイト。なんとか生きながらえた。

下積み時代、お茶汲み、電話番、事務所の掃除や整理整頓、
版下づくり、たまにデザイン、自ら積極的に何でもした。
すべてが将来の肥になると思っていた。

入社4年目、デザイナーとして忙しい毎日。
将来独立をしたい!(できれば東京で!)という思いが強くなる。

最も忙しかった頃は、徹夜はあたり前で、土日を含む1週間で、家に帰れたのは3日だけだった。
体力だけは人並み以上にあったようで、親からもらった丈夫な身体に感謝した。

20代後半の頃は、徹夜ばかりでまったく余裕もなかった。
ただ「将来独立して成功してやる!」という思いだけでただただガムシャラだった。

大学時代の親友と共に、2人展「Back to Back」「Back to Back2」を東京、広島、愛媛で開催。 グラフィックデザインと油絵、都市と地方、人間と人間…という背中合わせの視点での展示。

独立。ガムシャラだった30代。

1998年、結果的に10年間の修行の末、
32歳のうちに独立したいという夢を、なんとかぎりぎりかなえる。
自宅の小さな部屋で独立開業。

独立直前には、NYに事務所ってどうなんだろうと、NYに出かけるが、
すぐに「これからは東京だな」と思い、東京でどこまでできるか挑戦することにする。
同時に、書道も始める。

2000年、有限会社デザインエイエム設立。
法人化のタイミングで、JR板橋駅に10坪の事務所を借りスタッフ2名を同時に雇う。
周りからは無謀と思われたようだが、自分なりに勝算も覚悟もあった。

2002年、株式会社化。さらにスタッフが2名増え計6名に。
この頃から仕事が劇的に忙しくなり、
(面白かったしやりがいもあったのでそれがさらに拍車をかけた)
まったく休みもなく土日働くのはあたり前、毎日徹夜で朝の5〜6時まで働く毎日。
時には完全徹夜のまま早朝、客先へのプレゼンのため電車に乗り込むこともあった。
アクセル踏みっぱなし。

そんなある日の明け方、事務所で胸の動悸が治まらず、自分で救急車を呼ぶ。
医者から「とにかく過労!このままだと二度と働けなくなるよ!」
「40歳超えてたら倒れて死んでたかもしれないよ!」と診断される。

ある意味、バランスをとるのが仕事なのに、
自分自身のバランスをとることは全く忘れていた。

それ以来「徹夜はしない」「土日は必ず休む」と決め、
体調管理に気をつけるようになる。

事務所を渋谷区富ヶ谷へ移転。

アカルイミライへ半歩ずつ、40代。

40歳、会社名DESIGNAM(デザインエイエム)は、
「アカルイミライ(AM)をデザインする」ことを理念とした。

さらに働く環境を良くしようと、代々木公園スタジオ(現事務所)を設計施工。

時々人からは「大成功ですね」と言われたが
自身は思うように上に行けない理想と現実のギャップに苦しんでいた。
今思えば「足るを知る」という言葉をきちんと理解していればもう少し楽だった。

手掛けたデザインによって、お客さまの売上げが大幅に上がったり、
事業が拡大したり、担当の方が異例の大出世をしたり、
発展する様子を次々と目の当たりにして、デザインで世の中を変えることができることを実感する。

「自分や家族のロゴをつくろう!」ワークショップ(渋谷区小学校)、
「自分の会社のロゴをつくろう!」セミナーを複数回開催。

ようやく経営を意識する、50代。

気づくのが遅いが、会社経営にようやく意識を向ける。

「経営者の心を高めることが、経営を伸ばすこと」

稲盛和夫氏の生の思想に触れるのもラストチャンスかもしれないと思い立ち、
「盛和塾」に入塾。
できる限り勉強会や月例会に参加、機関誌やCDを読み聞きあさる。
(盛和塾は2019年末に解散)

デザイナーとしては30年、経営者としても20年以上が経ち、
過去から現在、すべてのスタッフや関わってくださる周りの人たちに支えられて立っている。
この会社をもっともっと良くして、
現スタッフをはじめ周囲の人たちを幸せにし、デザインでクライアントの役に立ち、
世の中を少しでも良くすることに貢献できればと強く思う。

これからも、一つでも多く世の中に存在した証(仕事)を残したいと強く思っている。
デザイナーとして、デザイン事務所として、一経営者として。
そのためには、目の前にある仕事一つ一つに全力であたるしかないと考えている。
手掛けた仕事でクライアントが幸せになることが、この上ない喜び。

著書『本質を一瞬で伝える技術』(KADOKAWA中経出版)

獅子座、O型(RH-)
趣味は、スキューバダイビング、書道(師範)、ドライブ、キャンプ、ラグビー、ゴルフ(最近になってようやく)少々。
近々、船舶免許を取ろうと思っている。バイクにもまた乗りたい。
自分の取り戻し方は、きれいな海で素潜り!